よく日本人は自分の意見がない、思考停止をしてると言われることがあります。
「自分の頭で考えて動けない人が多い」「平和ボケしている」という評価をされることが多いわけですがその理由はなんなのかお話ししていきたいと思います。
海外業務経験アリ、現在ベトナムのダナンでノマドしている僕がこの記事を書いてます。
自分で考えられない人間は教育で作られる。
結論を言ってしまえば、自分で考えられない人間は教育で作られます。
日本の教育というのは正解を求めること、先生にマルをもらうことが主な目的となっています。
教科書丸暗記。塾をやってるといろんな学校の定期テストを見る。この中でどうしても解せないのが、教科書丸暗記。子供に和訳を配って、覚えておいて覚えておいでテスト出すよ、ボンっ。これじゃ英語嫌いになるし、これが英語学習だと思わないでほしい。年配に多い気はする。
こちらの方のツイートにもありますが、僕も学生時代は頑張って英語の教科書を暗記していましたね。
記事を読んでいるあなたも同じような経験あるかも知れませんが、ただ英語ってコミュニケーションツールなので英語を使って会話できなければ意味がないし、英語を使えなければ意味がありません。
将来英語を使えるような教育を目指すのであれば英検やIELTSのようなスピーキングテストや、英作文のトレーニング積むべきなのですが、学校教育ではほとんど行われません。
その理由は、
スピーキングや英作文でテストを行うと点数がつけづらいからです。
つまり学校での学習というのはその後の人生に役立てるためでも将来お金を稼いで豊かな人生を送るためでもなくて、先生がマルバツをつけやすいように設計されているということです。
こちらは小学校のテストで理不尽にバツをつけられた解答をまとめた動画でなかなか面白いのですが、
小学校の時って、
- 習っていない感じは使ってはダメ
- シャーペン使ってはダメ
とよく分からないルールがあったりなんでバツなのか納得いかないことありますよね。
例えば、
動画の中で登場するこちらの問題
新潟の車と書いて、バツになってしまいました。
- 新潟の車
- 新型の車
テスト前に何かアナウンスがあったのかもしれませんが、
- 新潟の車
- 新型の車
どちらでも間違いではありません。むしろ意外と書けない「潟」が書けてるのですからはなまるあげてもいいくらいです。笑
ただ「新潟の車」では先生が意図していた答えとは違っていたということでバツがつけられてしまうわけですね。
続いてはこちら火という漢字です。
左の点を立てるのが正しいとのことで減点されているのですが、でもこの字を見せられて「火」と読めない人は1人もいないはずです。
そもそも小学校で漢字を学ぶ目的は日本人としてネイティブレベルに漢字を使いこなせるようになることです。
- 漢字を読むことができる
- 漢字を書くことができる(相手に伝わる)
まずはこの基礎が大事なわけで、
- 正しい書体で書けるかどうか、
- 綺麗に書けるかどうか
というのはその次なのではないでしょうか?
日本人は98%を99%にする事にこだわりすぎなんですよね。
重箱の隅をつつくようなことをして減点をしても子供にとって何のメリットもないですし、ただやる気だけがなくなるだけです。
こんな感じで、
なんのために学ぶのか?
という根本的な理由が置き去りにされて、マルバツの判断がされていく。
次第に生徒側はマルをもらうために行動するようになるし、
そして生徒側は学校や先生が決めた正解を当てるそことが求められていくわけですね。
規律や振る舞いも正解が作られ、正解を求められる
さらに学習面だけではなくて、規範や振る舞いなどの「正解」も学校で叩き込まれます。
ブラック校則というパワーワードも生まれてますよね。笑
- 地毛が茶色でも黒染めしないとダメor認められるまでに超手間がかかる。
- スカートの丈が決められている
などなど、あなたも学生時代ブラック校則に悩まされた経験があるかと思います。
ネットでも話題になっていた、
- ポニーテール禁止
- 下着の色を指定される
- あだ名禁止
などブラック校則異常の校則なんかも生まれてますよね。笑
合理性に欠けるルールを作って余計に問題を増やしたり子供の居心地を悪くさせる。そんなことやってるのって日本だけです。
僕の話で恐縮なのですが、中学校の修学旅行で僕は浴場から部屋を移動する時にパジャマ用のTシャツを着て移動していたんですね。
で、大浴場から自分の部屋に向かっているときに階段で見張っていた先生に「お前!何着てんだぁぁ」とブチギレられたんですよ。笑
どうやら寝るとき以外は学校指定のジャージを着なければいけなかったようで、パジャマでうろうろしていた僕は怒られてしまったわけです。
お風呂と部屋の行き来だけで、しかもあと寝るだけという時間帯でなぜ学校のジャージを着ていなければいけないのか
自分の部屋に戻った後にまた着替え直すという非効率なことをなぜしなきゃいけないのか、
人として裁かれるようなこともしていないのになぜ怒鳴られなければいけなかったのか
いまだに理解不能です。笑
まあ僕の学校の先生たちは基本優しく優秀な先生がたくさんいたのですごく恵まれてたとは思ってるのですが、
こんな感じで一般社会から考えても合理性に欠けるルール作ってそのルールを守らせることで、学校という社会や先生という権力を持った人のいうことが正しいということを学んでいくわけです。
学校では学習面だけではなくて、行動や振る舞いまでマルをもらうことが正しいと教えられるので、社会人になっても、大人になっても頭で考えるよりも脊髄反射的に「正解」を求めるようになってしまう。
そしていつしか誰かから正解たらしめる「示し」を貰わないと行動できない。何をするにしても指針を示されないと不安になって行動ができなくなっていきます。
マスクとかもそうじゃないですかね。35度を超えるような真夏日が続いてたとしてもマスクを付け続ける。1人で歩いてるときもマスクを外さない。
本来ならば自分の判断でマスクを着用する場面と外す場面を判断すればいいわけですが、政府や自治体が詳細なガイドラインを示すまでみんなマスクを付けたままってことになるわけですね。
幼少期では学校の先生や校則が正解とされその「正解」を満たすことができなければバツをもらう。
20代以降はテレビの情報や会社、世間で正しいとされる考え方や振る舞いや生き方が正解とされ、自分はズレていないか間違っていないかどうかを基準に考え行動していく。
そうやって日本人は幼少期も、大人になってからもずっとマルをもらうために行動するので、自分で考えて行動する人が少なっていく。
これが思考停止の人が多くなる理由です。
失敗する事に寛大になれない国民性は衰退を助長するって話。
よく日本人は完璧主義と言われたりするように、日本人は失敗に寛容になれないという側面があります。
ネットでは
- ○○って言ってた人いきしてる?
- メシウマ
など、
間違いや失敗した人を揶揄する風潮がありますが、「間違うことはよくない事だ」という完璧主義思考が蔓延しているんですよね。
間違えられない雰囲気がある社会では当然失敗して笑われたり、恥をかきたくないので新しいチャレンジや挑戦をしなくなります。
その先にあるのって衰退でしかありません。
僕がオーストラリアにいた時の話ですが、例えば誰かが英語で話そうとしていて、その生徒がうまく英語で表現できず諦めようとすると「トライ!」っていう言葉が飛び出してくるんですよね。
できなくてもいいからとりあえずやってみろと。
僕もクラスで英語で話そうとして、
「I can’t explain it in English」(英語で説明できない!)
って言っちゃてたんですが、そういう時も、
Try!! come on!!
って言われると「話せるところまでやってみよう!!」って気持ちになるものです。
リスクをとって失敗しても挑戦したことを讃えたり失敗を許容する文化が欧米にはあったりします。
僕は学校という環境で失敗に対する受け止め方の違いを知りましたが、これが職場や社会全体で失敗を許容できる雰囲気があるとしたらどうでしょうか?
当然行動しやすくなりますよね。
リスクをとってチャレンジする人や挑戦する人が増えていきます。そうすればアップルやアマゾンのような新しいイノベーションが生まれ社会が発展していきますが、挑戦する人がいなけれ衰退するしかありません。
自分の頭で考えて行動することと、失敗することはどう意義です。
自分の頭で考えるってことは、今までのやり方や決まりなど規則的な動きから逸脱した行動になることが多いわけですから、その行動は未知の領域であって当然失敗する可能性が大きいもの。
でも、失敗したくないと思えば、規則的な動きに従っていればよくて、
周りの意見や空気という人生マニュアルもそう。
仕事でのルーティーンでもそう。
仮に改善できる点があったとしても、今まで通りやっていれば失敗することはありません。
でもそれってなんの進歩もないし、発展性もないですよね。起業なんてまさにそうで、
僕海外ノマドという生き方をするためにたくさん失敗してきました。
- 初めて立ち上げたブログは半年間ゼロ円でなんの結果も得られなかったり、
- 1ヶ月の間に2回肺に穴が空き手術をしたり
ここではあんまり言えないようなダサイ失敗したり、いろいろありました。笑
でも基本的に何事も失敗はするものであって、
大事なのは失敗しないことではなくて失敗したときの立て直し方とか、再チャレンジできるマインドの方がよっぽど重要なんですよね。
失敗できない社会=自分の頭で考えない社会=未来のない社会
ですから、
学校教育では失敗してもいいし間違ってもよくて、一番よくないのは挑戦しないことだってことを教えるべきなんです。
ただ残念ながら僕らは、
学校教育で少なくとも10年以上振る舞いや学習に至るまでマルとバツで評価される社会にいる。言ってみれば常にバツもらうことを恐れている状態なんです。そりゃ完璧主義にもなるし、自分の失敗も他人の失敗にも厳しくなるよって話ですよ。
失敗したり、間違うことは恥ずかしいという社会の空気を作り上げるものも、正解を求めすぎる教育や均一性も求める教育の弊害なんです。
自分で考えない行動できない人が不幸になる
というわけで、
日本人が自分で考えない理由は、
正解を求める教育を受け続けているから
と言えます。
- 学校の先生
- 会社の上司や同僚
- 親
- 友人の意見
- テレビで流れる世間の声
誰かの指示通りに動いたり多数派に従っていればラクです。責任もをつ必要も自分で決断する必要もないですから。
でもその思考停止状態だと、一向に豊かになれません。
例えば仕事でも一昔前は、
- 終身雇用が確立されていた
- 退職金もしっかり出てていた
- 年向序列で毎年給料が上がっていた
雇用の仕組みが機能していたので、そのレールに沿っていけば幸せになることはできました。
でも今はどうでしょうか?
- 給料が30年間上がらない
- 労働時間はフランスの2倍
- 1年間で鳥取県の人口と同じ数の人口が減っている
- 家庭の負担が世界第4位
問題が山積みの日本で周りの意見や空気に流されているだけでは自分の幸福は追求できないんですよね。
- 収入や資産を増やしたり、
- 好きな人と好きな場所で過ごす時間が増えたり、
人生が豊かになる人は思考停止にならずに自分の頭で考えられる人です。
この日本という社会をただの傍観者として眺めているのではなくて、自分の意見や切り口を持ち仮説を立てて生きてる人です。
「いつでも逆張りでいけ!」とかそういうことではなくて、自分が本当に感じてることを大事にしようってことです。仮にあなたのホンネが一般常識から外れているようなことだったとしても、
周りの非常識はあなたの常識ですから。
周りの正解じゃなくてあなただけの正解を見つけるために頭をフル回転させていきましょう。
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